日本の建築はいつから「空間良ければ全て良し」になってしまったのか?
毎年この時期になると、日本建築家協会(JIA)から「現代日本の建築家」の最新号が送られてきます。
(1年ごと)
そこには日本の名だたる建築家とその作品が掲載されています。
また、その年にJIAの賞を受賞した作品も掲載されます。
見ていると、本当にどれも美しく、自分はまだまだだと思い知らされるわけですが
それと同時に虚しさも感じざるを得ません。
というのも、JIA、建築学会、あらゆる建築雑誌のほとんどがいまだ
「空間良ければ全てよし」という風潮が残っているのを感じずにはいられないからです。
建築家にとって、有名誌に取り上げられることは非常に重要なことです。
そのためには絵としてきれいでなくてはなりません。そしてそれよりなにより
求められるのは「空間の素晴らしさ」です。
一般の方は建築自体の美しさを競うのが建築家と思われるかもしれませんが、
どちらかというと、建築家は「素晴らしい空間」を作ることに注力している場合が多いのです。
私は大学時代に、最初の建築家と言われるウィトル・ウィウス(紀元前50年頃の人)の建築十書という
書物の話を聞きました。
そもそも建築を意味するアーキテクトとはギリシャ語のアルヒテクトが語源であり、その意味は
全能を意味するのだと・・・。
デザインセンスはもちろんのこと、構造、音響、予算の調整等々様々なことを統括して納める
能力が求められるからだと教わりました。
建築学科ではいろんなことを教わりましたが、今でも覚えているほど強烈な印象を残した言葉でした。
次に、実際に社会に出てからは上司からだったと思いますが
設計する人間は
「風水地火熱観音」のどれひとつ欠けてもならない。
ひとつでも欠けたらいくら他が良くてもその建ものは落第であるとも
教わりました。
これは「ふうすいちかねつかんのん」と呼びますが
風:台風等
水:雨漏
地:地震
火:火事
熱:温熱環境
観:デザイン
音:防音、音響等
です。これまた、本当にこの仕事の醍醐味と責任感を痛感させられる見事な言葉だと
今も肝に命じています。
ところが、今の建築業界を見渡してみると、名だたる団体や雑誌こそが戦犯と
言えるかもしれませんが、この中の「観」だけに90%くらい重きをおくような
感じとなっています。
車に例えるならデザインさえ良ければ、走行性能や燃費は二の次でも構わない
ということになります。
デザインでは最高レベルであるフェラーリですが、もはや最高速度、燃費
故障のしにくさは日産のGT-Rには及びません。
とはいえ、大多数の車よりは圧倒的に速いスピードで走ることができることも
事実です。
もしフェラーリがデザインは素晴らしいけれども走ったら200万のスポーツカーより
遅かったらどうでしょう?いくらデザインが良くてもおそらく誰もみむきもしないと思います。
これがあり得るとしたらそれはクラッシックカーの世界です。
新品を買う場合においては有り得ない話です。
今、某著名建築家が設計した住宅の雨漏り問題につきあっています。
10年近く毎年雨が漏り続けたにも関わらず、全てを工務店におしつけ
一度足りとも見に行くことすらしない・・・。どうみても雨仕舞がなっていないことが
原因ですが、デザイン重視で雨を軽く見ている。そして、その責任は工務店に
おしつける・・・。全員とは言いませんが、意匠系の建築家によくあるパターンです。
雨漏りは瑕疵(当然あるべき性能)だから絶対に直さなければならない分だけ
まだましです。しかしながら、断熱性能等は瑕疵ではないので誰も文句も言わなければ
修正されることはありません。
ヨーロッパでは意匠系の建築家といえどもきちんと性能を伴った設計をしています。
日本の建築業界はいつからアルヒテクトという崇高な理念を忘れてしまったのでしょう?